刺さった一文ブログ

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『ヒモ男に足りないのは子宮』-「女がそんなことで喜ぶと思うなよ ~愚男愚女愛憎世間今昔絵巻」

 

「女が外で稼いで男が家のことをするだって勿論オッケーだし、他人の家のことは誰も文句言えないよね」

 

これは令和のお洒落なイマドキの男女観に見えるが、男がどんなに家事が得意でも、育児ができても、出産は出来ないという非対称性は、イマドキな男女平等を突き詰めていこうとすれば最初の一合目でぶつかる壁で、その壁は一合目に現れるくせにほとんど誰もが超えられない巨大な壁だ。それはそういうものだと受け入れて開き直るか、そこだけ見なかったことにして話を先に進めるか、しかない。

 

経済力を土台に夫が妻に偉そうにする時代は前時代的だと相槌を打ちながら、でもやっぱり経済的な土台がない男には惹かれない、というちょっと矛盾した感情に罪悪感まで感じるのところが、論理的な部分と感覚的な部分の両方がぶつかり合ってる鈴木涼美らしくてよい。そして友人からの「男がなんでもやってくれるのはありがたいけどさ、結局子どもは産んでくれないじゃん」という一言は、元も子もないけどこれ以上ない正論で、家事にDIYまでやってくれる男が「ヒモ男」と言われてるのは同じ男としてちょっと可哀想な気持ちにもなるが、やっぱりその通りだと思う。

 

いい歳しても「男は稼いでなんぼ」という価値観には馴染みきれてない平成生まれのゆとり男子の僕が、これを読んで思ったことは「子どもを作ることを前提とする限り、男女平等もクソもないな」ってこと。子宮の有無という根本的な差異がある限り、管理職の男女比率だのにこだわったって、根本原因に誰もアプローチ出来ていないのだからどこかに歪みが生まれてうまくいかなくなるのは当然な話。

今の男女は、前時代的だと批判されながらも昭和のマッチョな男社会思想を貫くか、根本的に穴のあいた新しい男女観に乗っかったフリしてどこかで出てくるボロを隠しながら生きるか、の二択の間で揺れ動いてる。

子どもを持つことが前提であり続ける限り、男性に経済力を、女性に家事やら育児やらを求められる時代はなんだかんだ続くし、それは男に子宮を移植出来るようになるまで、つまりは永遠に続く話なんじゃないかな。

 

極端な意見かもしれないが、夫婦二人で子どもを育てるというモデル自体がもう時代にマッチしてないのだから、複数人で育児に参加するのが当たり前な時代がやってこないだろうか。例えば子どもひとりに父3人母3人。育児が得意な母Aと父Aは子育てが主体で、働くのが得意な母Bと父Bは外で稼いできて、家事の得意な母Cと父Cは常に家のことをやっている。収入が心配なら働き手をもう少し増やしてもいい。血縁なんて目には見えないものが重視される時代だってそろそろ胸焼け気味だし、夫婦二人じゃどう見たって手が足りないんだから、子育てだってシェアすればいいのになと思うのだ。

男だって働くだけの生き方しかないのって不自由だし、女だってその逆が言えるだろう。子宮の有無は変えられないけど、それひとつで生き方が縛られるのもナンセンスって誰か言い出してくれないかな。